ムハンマド風刺画問題
テレビでの報道を見る限り、この事件の最も基底にある宗教的常識が踏まえられていない。
その風刺画のムハンマドの描き方がヒドイから、ムスリムの怒りを買った。
掲載された漫画が、冒涜的な風刺画だから、激しい怒りを買ったのだ、と。
あの報道の仕方なら、大半はそう理解するでしょう。
そういう事実も一部あるのかもしれないが。
それ以前の問題として、イスラム教では最後の預言者ムハンマドの偶像を作ることなど絶対許されない行為だ。
偶像崇拝の禁止。これにつながるものだから絶対にダメ。
それは経典『クルアーン(コーラン)』にもしっかり書かれている。
唯一絶対神アッラーはもちろんのこと、預言者等々も、要するに宗教的に偶像を作って崇めること自体禁止。人間の手によって造形することなど畏れ多い冒涜。そんなことする奴は悪魔だ。
偶像と言うと、大仏とかダヴィデ像的なイメージになりがちだが、当然絵もダメです。具象化がダメなわけ。
ですから、歴史史料を見てみると、どうしてもムハンマドを描かなければならない場合は、顔の部分だけ真っ白になってます。そういうモノも残ってます。
なので、増してや異教徒がイスラム預言者の偶像を描くことなど、宗教的冒涜以外の何物でもないでしょう。
っていうような解説が、テレビどこ見ても、されてない。単に見てないだけかも知れんがね。
ちなみに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、それから仏教も、大宗教は根本において、偶像崇拝禁止ですので。
中でもイスラム教は純粋に厳守し続けてます。
数年前のタリバンによるバーミヤン仏教石窟群の破壊も、そういう意味がある。
彼らが、異教である仏教を認めないから、ではない。偶像だから破壊した。文化遺産だろうが関係あるか、つーことだ。
2006年02月08日
2006年02月03日
勘違いな公共
公共批判第三回目。公共とは何かです。締めくくりになるかどうか。
青はおなじみ金村キンタロー激似の酒田市民氏の発言、緑は私エビです。
以後これに関する応答なし。
以後誰でも分かるように手堅く進めていきます。
私が「公共性を国家に還元できると言うならば」と言った時の意味は3だ。govermentや stateが関わる意味での公共だ。要するに私は、そうじゃないでしょう?と、言葉の吟味を促しているのだ。
そして酒田市民氏は「公=国」の「国」は国家ではないと言う。
…じゃあ何なのか。
おそらくだが、氏は1の意味でイメージしているのだろう。公共心という言葉もこのカテゴリーに入るし。
…しかし。だったら「公=国」と、敢えて「国」を強調させる必然性はないわけです。でもでも、それでも「国」を強調したいわけは何なのか。
それは、公共性に関する根本的な勘違いがあるからでしょう。そしてそれは一般的によく見られる類の単なる無知なのです。ここまでで既にお気付きの方も多いと思いますが、以下ご説明申し上げましょう。
氏が「公=国」と言う時の「国」とは、つまりはnationなのだ。オーソドックスには第一義的に「国民」と訳すのが適当だと思うが(これは散々指摘してきた)、日本風に解釈を加えれば「国体」nationalityと言ってもまあ良い。
まあ「天皇を中心とする神の国であるぞ」みたいなメンタリティとか、大和魂みたいな、一種の国民(民族)共同性ですわな。そういう特に精神性に重きを置いた共同性を思い描いている、ように思える。
さて、ここで再び「公共性」とは何かという振り出しに戻り、これに関して明晰に定義したハンナ・アレントにご登場願おう。
主体は「万人」であり「私たち」であると。
ここで言う「万人」や「私たち」とは、彼女によれば、「共通性」のみならず、「独自性をもつ多種多様な人々の構成体」という意味で用いている。
すなわち「公共性」とは、多種多様な人々による自己と他者のコミュニケーションによって創出される現われ、と言えましょう。
さらに私なりに表現すれば、それを可能とする前提自体をも「公共」としたい。
何を確認したいのかお分かりですよね?
ですから、【公共 publicの意味】においても確認したように、あの中の3でなければ(公共心という言葉は3ではあり得ない)、敢えて国家の領域を限定して公共を語る必要は、定義上は、全くないのです。
これらは、根本的な方法論が倒錯している様子が良く分かる例です。
要するに、公共とは何の謂いなのかすら知らないからこういうお粗末な論を只管展開できるのです。
端的に言えば、彼はある価値観を共有できる、ないし少なくとも価値観同士が衝突しない範囲を以って、公共性の可能な範囲としようと模索している。
デタラメです。
価値観を以って「公」とするならば、「ほとんど国ごとに「公」が異なって」いて当ったり前じゃないか。そんな「公」は反公共的だ。
公共とは、そういうもんじゃないのです。
ドイツ語では「公共性」の語源は「開かれている」という意味の語だ。誰にでもオープンであること。閉ざされていない、範囲を設定されてないことを以って、公共なんだから。公共には「内」も「外」もない。
そして、習慣や文化や価値観が同質である(と信じられる)範囲、これは共同性だ(逆に共同性は「外」の異質を以って「内」の同質を成す)。
共同性は共同体毎にそれぞれ異なるのであるから、他の共同体と共同性が違ってて当たり前なわけ。相容れない部分が有っていい。
むしろ。公共が要請されるのは、複数の多様な共同体間において、異質な共同性を持った共同体の成員同士でコミュニケートする必要があるからなのであって。
そもそも内輪同士なら公共要らないの。分かる?
信じる宗教が違うから、人種・民族が違うから、時間の観念がズレてるから、女性蔑視な国だから、食事の仕方が汚いから、トンでもないことには反日的な国だから、…など、振る舞いが異なるから、だから我々の公共的な場から排除されて当然、ないしはできるだけ排除したいなんて輩。
こんな輩こそ、公共心のかけらもない反公共的な奴なわけです。
こんな輩がこれ以上跋扈してはまさに国辱的。愛国に燃える憂国の志士ならこういうバカから順に鉄槌を加えるべき。
というわけで、「公」の範囲を決めるなど何の学術的意味を持ちませんので。
今回は、公共論するなら、最低限公共性と共同性の違いくらい弁えて下さいというお話でした。
ただ、ニュータイプ論?、それは一見の価値ありそうですねー。
参照
山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書)
斉藤純一『思考のフロンティア 公共性』(岩波書店)
青はおなじみ金村キンタロー激似の酒田市民氏の発言、緑は私エビです。
「自分のために」を超えたところに「公=国」が現れる
(2005年12月04日 個を超える勇気と誇り1)
>「公=国」
公共性を国家に還元できると言うならば、公と書くところを全て国と書けばよい。
古来から、公共性と国家の論理とはむしろ矛盾するのだ。古代ギリシアからずーっとそう。
(1. Posted by エビ 2005年12月04日 22:15)
国家???
エビさん、私がいつ、「公」≒「国家」だと言ったね?壁|〃´△`)-3ハゥー
(2005年12月04日 国家???)
>「自分のために」を超えたところに「公=国」が現れる
>エビさん、私がいつ、「公」≒「国家」だと言ったね?
なるほど。「国」と「国家」とは違うと仰りたいのですね??
違うなら「学術的に」どういう風に異なるのかご説明頂きたい。
(1. Posted by エビ 2005年12月05日 16:25)
以後これに関する応答なし。
以後誰でも分かるように手堅く進めていきます。
【公共 publicの意味】
1、一般の全ての人々に関わる (公共の福祉、公益)
2、公開の (公園、情報公開)
3、政府の、国家に関係する公的な (公安、公共事業)
私が「公共性を国家に還元できると言うならば」と言った時の意味は3だ。govermentや stateが関わる意味での公共だ。要するに私は、そうじゃないでしょう?と、言葉の吟味を促しているのだ。
そして酒田市民氏は「公=国」の「国」は国家ではないと言う。
…じゃあ何なのか。
おそらくだが、氏は1の意味でイメージしているのだろう。公共心という言葉もこのカテゴリーに入るし。
…しかし。だったら「公=国」と、敢えて「国」を強調させる必然性はないわけです。でもでも、それでも「国」を強調したいわけは何なのか。
それは、公共性に関する根本的な勘違いがあるからでしょう。そしてそれは一般的によく見られる類の単なる無知なのです。ここまでで既にお気付きの方も多いと思いますが、以下ご説明申し上げましょう。
氏が「公=国」と言う時の「国」とは、つまりはnationなのだ。オーソドックスには第一義的に「国民」と訳すのが適当だと思うが(これは散々指摘してきた)、日本風に解釈を加えれば「国体」nationalityと言ってもまあ良い。
まあ「天皇を中心とする神の国であるぞ」みたいなメンタリティとか、大和魂みたいな、一種の国民(民族)共同性ですわな。そういう特に精神性に重きを置いた共同性を思い描いている、ように思える。
さて、ここで再び「公共性」とは何かという振り出しに戻り、これに関して明晰に定義したハンナ・アレントにご登場願おう。
【アレントによる「公共的なもの」の定義】
「万人によって見られ、開かれ、可能な限り最も広く公示されている現われ」「私たちすべてに共通する世界」
主体は「万人」であり「私たち」であると。
ここで言う「万人」や「私たち」とは、彼女によれば、「共通性」のみならず、「独自性をもつ多種多様な人々の構成体」という意味で用いている。
すなわち「公共性」とは、多種多様な人々による自己と他者のコミュニケーションによって創出される現われ、と言えましょう。
さらに私なりに表現すれば、それを可能とする前提自体をも「公共」としたい。
何を確認したいのかお分かりですよね?
ですから、【公共 publicの意味】においても確認したように、あの中の3でなければ(公共心という言葉は3ではあり得ない)、敢えて国家の領域を限定して公共を語る必要は、定義上は、全くないのです。
我々の持つ公共心がどのくらいの範囲まで通用するべきと考えているかと言えば
やはり小林よしのり先生の言うとおり、日本国内が現実的だろうと思う「公」とは「国」のことだとして話を進めてみると
(2005年12月01日 公共心と個)
「公」…公共性というものをできるだけ広い範囲で共有できる人々の価値観を考えると、
中国や、韓国や、中東や、アメリカには、なかなか共有できない価値観がいっぱいある
ほとんど国ごとに「公」が異なっている。
我々の手に負える範囲の「公」は目一杯、拡げても同じ約束ごと…
言語・慣習・文化が共有できる「国」までだろう。
その意味で「国」=「公」と規定している
それが理解できない方が多いようだ
(2006年01月26日 公の範囲)
これらは、根本的な方法論が倒錯している様子が良く分かる例です。
要するに、公共とは何の謂いなのかすら知らないからこういうお粗末な論を只管展開できるのです。
端的に言えば、彼はある価値観を共有できる、ないし少なくとも価値観同士が衝突しない範囲を以って、公共性の可能な範囲としようと模索している。
デタラメです。
価値観を以って「公」とするならば、「ほとんど国ごとに「公」が異なって」いて当ったり前じゃないか。そんな「公」は反公共的だ。
公共とは、そういうもんじゃないのです。
ドイツ語では「公共性」の語源は「開かれている」という意味の語だ。誰にでもオープンであること。閉ざされていない、範囲を設定されてないことを以って、公共なんだから。公共には「内」も「外」もない。
そして、習慣や文化や価値観が同質である(と信じられる)範囲、これは共同性だ(逆に共同性は「外」の異質を以って「内」の同質を成す)。
共同性は共同体毎にそれぞれ異なるのであるから、他の共同体と共同性が違ってて当たり前なわけ。相容れない部分が有っていい。
むしろ。公共が要請されるのは、複数の多様な共同体間において、異質な共同性を持った共同体の成員同士でコミュニケートする必要があるからなのであって。
そもそも内輪同士なら公共要らないの。分かる?
信じる宗教が違うから、人種・民族が違うから、時間の観念がズレてるから、女性蔑視な国だから、食事の仕方が汚いから、トンでもないことには反日的な国だから、…など、振る舞いが異なるから、だから我々の公共的な場から排除されて当然、ないしはできるだけ排除したいなんて輩。
こんな輩こそ、公共心のかけらもない反公共的な奴なわけです。
こんな輩がこれ以上跋扈してはまさに国辱的。愛国に燃える憂国の志士ならこういうバカから順に鉄槌を加えるべき。
また、「公」「公共性」はひとつではない、という考えも述べておきたい。
「公」の範囲が「国家」であることも「地方」であることも「人類全体」であることもある
それらの違いを人間の認識力の拡大で、公共性の違いを認めなければならない
その人間の「認識力の拡大」こそが、現実世界におけるわたくし独自の「ニュータイプ」論につながるのだが
(2006年01月04日 公と個に関してまたTB)
というわけで、「公」の範囲を決めるなど何の学術的意味を持ちませんので。
今回は、公共論するなら、最低限公共性と共同性の違いくらい弁えて下さいというお話でした。
ただ、ニュータイプ論?、それは一見の価値ありそうですねー。
参照
山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書)
斉藤純一『思考のフロンティア 公共性』(岩波書店)
2006年01月25日
日本のシンガーTOP30
hmv.co.jpが独断と偏見で選ぶ"日本のシンガーTOP30”。
栄光の第1位は山下達郎さんです。
日本のシンガーTOP30
1. 山下達郎
2. 山口百恵
3. 桑田佳祐
4. 美空ひばり
5. 松任谷由実(荒井由実)
6. 小田和正
7. 松田聖子
8. 桜井和寿
9. 井上陽水
10. 宇多田ヒカル
11. 大瀧詠一
12. 坂本九
13. 沢田研二
14. 矢野顕子
15. 佐野元春
16. 中島みゆき
17. 矢沢永吉
18. UA
19. 忌野清志郎
20. 竹内まりや
21. 浜田省吾
22. 奥田民生
23. 和田アキ子
24. 草野マサムネ (スピッツ)
25. 尾崎豊
26. 槇原敬之
27. 吉田美和(Dreams Come True)
28. 椎名林檎
29. 大貫妙子
30. 平井堅
達郎氏とは意外ですね。上位に来るのは分かるが、トップとはね。hmvもそれなりの社員を擁してるということでしょうかね。
でもシンガーつーことは、歌唱力基準なわけでしょ。ならユーミンが5位つーのは過大評価でしょ。腑に落ちん。
それともシンガーソングライターとしての総合力を基準とするのか。それならユーミンはその辺で納まっていいよね。まあ、そういう捉え方なんでしょうかね。でもそんなら山口百恵2位は変だし。
…曖昧だね。
個人内で、歌唱力と音楽作家としての力量は必然的には比例しないわけで(ランクインしてる人は大体が双方卓越してますけどね)、その辺を別個の才能として捉えてくれないと、世の音楽家も歌手も浮かばれません。
私エビによる歌唱力のランク付け。
男子一位、山下達郎。次点、小田和正。スタレビ根本要、鈴木雅之が後に続く。女子一位、吉田美奈子。同点で、美空ひばり。ちなみに洋楽ならダニー・ハサウェイだな。
総合力のランク。
男子一位、山下達郎、同点、桑田佳祐。井上陽水も上位でしょうね。女子はいまいち決め手がないが、まあ吉田美奈子は上位だ。
参照 http://www.hmv.co.jp/news/newsDetail.asp?newsnum=512230022
2006年01月24日
太平洋側から日本海側へ
2006年01月17日
敵の顔は常にあんなにも醜い
読了リスト。やや分野が偏った。まだ残ってるんだけど、暇でもないし、とりあえずアップ。
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)
新書とは思えないほどの整然とした手堅い理論書、だが入手しやすさもあって社会学の基本書として読みうるだろう。社会学はこうやってやるんだみたいなモデルのような本。
大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書)
大塚史学ってどんなん?って思って数冊買い込んで読んだ一冊目。昔の新書って内容濃いなーっていう感慨。マルクス、ウェーバーの用語の解説が所々に出てきててそれが役に立った。
山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書)
全体的に無難な論調。「公共」の定義や思想史を踏まえる第二章までが私にとっては特に役立つ。別に選んだわけじゃないんだけど今のテーマにピッタリきたな。
アンヌ・モレリ著・永田千奈訳『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社)
「われわれは戦争をしたくはない」「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」「敵の指導者は悪魔のような人間だ」「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」「われわれの大義は神聖なものである」「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」
全ての煽りはこれらの変奏曲。全ての事象は、今までのとは比較にならない、異なった仕方で特殊な具体性を持っているように見えたり言われたりするが、それは事象というものは常に現在という場に起こるためなのだ。事象は性質上(過去や未来ではなくて)「現在」にしか生起できない。過去として眺めることができるようになればこんなにもパターン化できるのにだ。だからこそアクチュアルに適用できると言えるが。分析的な深さはないが、文中の暴露的なエピソードは勉強になる。
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)
新書とは思えないほどの整然とした手堅い理論書、だが入手しやすさもあって社会学の基本書として読みうるだろう。社会学はこうやってやるんだみたいなモデルのような本。
大塚久雄『社会科学の方法』(岩波新書)
大塚史学ってどんなん?って思って数冊買い込んで読んだ一冊目。昔の新書って内容濃いなーっていう感慨。マルクス、ウェーバーの用語の解説が所々に出てきててそれが役に立った。
山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書)
全体的に無難な論調。「公共」の定義や思想史を踏まえる第二章までが私にとっては特に役立つ。別に選んだわけじゃないんだけど今のテーマにピッタリきたな。
アンヌ・モレリ著・永田千奈訳『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社)
「われわれは戦争をしたくはない」「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」「敵の指導者は悪魔のような人間だ」「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」「われわれの大義は神聖なものである」「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」
全ての煽りはこれらの変奏曲。全ての事象は、今までのとは比較にならない、異なった仕方で特殊な具体性を持っているように見えたり言われたりするが、それは事象というものは常に現在という場に起こるためなのだ。事象は性質上(過去や未来ではなくて)「現在」にしか生起できない。過去として眺めることができるようになればこんなにもパターン化できるのにだ。だからこそアクチュアルに適用できると言えるが。分析的な深さはないが、文中の暴露的なエピソードは勉強になる。

