2008年07月13日

タテマエ

大分県教委汚職

まあこれは全国に拡大するね、間違いない。

大変よいことだ。

しかし、はるか昔からの慣行でしょうけど、なぜ今ニュースになるのか、そこが知りたい。

ニュースになるまでのいきさつが知りたい。


現実社会は、言うならホンネの論理とタテマエの論理とで構成されている。

ところで、教育現場というのは、我々のタテマエが、最低でもタテマエとしては通用せられるべき場である。


学校現場で勤務する教員は、教員としての資質や熱意や使命感、専門性などを教員採用試験で厳正に選抜された結果、教壇に立っているはずだという了解は、この社会の最低限のタテマエの1つである。


…イヤイヤキミ、それはタテマエに過ぎず、現実にはコネクションなんだよと……

…親切にも教えて下さるアナタ、

そういうようなことが、大分に限らずあるのは想像に難くなく、本県でも明るみに出て、採用者も全部実名で報道される日を待ち望んでますけどね私は、

現実を教えてくれるのはありがたいんですけどー、

あなた自身はそれをどー思ってんのかしら??

仕方ないと思ってるのか、むしろみんなやってるから自分もあやかりたい…って思ってるのかね?


不公正に採用された教員に子供預けたくないね私は…

子供いないけど

つーか私自身教員ですけど、付き合いたくもないね、そういうのとは…

しかし、不公正に採用されて、どんな面して生徒に向き合うのかね???

それが単純に不思議

面の皮厚すぎだろ

一体何を話せるの??

裏金、買収の重要性を説くのか?


学校は、その本質によって、公正というタテマエがタテマエとして通用しなければならないでしょ。

最低限のタテマエが
posted by 日本海式エビ固め at 11:58| 天津 🌁| Comment(0) | TrackBack(7) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月15日

サヨク観の低級ぶり

自分が溜飲を下げるために捏造され消費されたマッチポンプサヨク像。

まあ、別にどういう左翼イメージを持とうが勝手だが、よくもまあこんなに単純おバカなステレオタイプになるもんだなと、ため息しか出ない。

ある小学校での授業風景

ある小学校での授業風景

先生:9条はわが国が世界に誇れて国民が皆幸せになる憲法なんだよ。

生徒:わあ9条ってすごいんですねー
   そんなにすごい憲法だったらどこの国も採用してそうですね、
   お隣のなんでも日本のまねをする国なんか喜んで採用しそう!

先生:……

先生:日本の民主主義を守るために9条は守らなければいけません、
   私たちは地球市民です、地球貢献国家を目指します、
   少数意見の排除は許しません。

生徒:先生言ってる内容が共産主義なんですけど。

先生:アメリカはとんでもない悪です!
   それに追従しようとする安部政権もとんでもない悪です!

生徒:そっかーじゃあチベット人を虐殺したり
   周辺諸国としょっちゅう紛争を起こしてる中国や
   日本にミサイルを飛ばしてくる北朝鮮もとんでもない悪ですよね!

先生:偉大なる首領様が居られる国と大中華帝国様が悪のわけないだろう!

この後生徒に体罰を加える。

公に曝すなら、正しく批判しなくてはいけない

9条はわが国が世界に誇れて国民が皆幸せになる憲法なんだよ。

そんなにすごい憲法だったらどこの国も採用してそうですね、お隣のなんでも日本のまねをする国なんか喜んで採用しそう!

お隣の国は違いますけど、憲法で戦争放棄を謳う国家は日本以外にも存在すること、また政治手段としての戦争否定、平和主義を謳う国は現時点で120ヶ国を超える

だから別に珍しくないから世界に誇れない

あと日本のまねをするというか、そもそも現行憲法の平和主義自体が、1928年に出され、日帝を含む列強を中心に以後数十カ国が署名し国際法の役割を担った所謂パリ不戦条約の流れを汲んでいるので。


日本の民主主義を守るために9条は守らなければいけません

…正しい発言だ。

だって公務員なんだから(公立なら)。憲法遵守義務がある(第99条)(笑


先生言ってる内容が共産主義なんですけど。

ちっとも共産主義じゃない。

建前として少数意見の尊重はデモクラシーの要件だろ。むしろ現実の歴史においては共産主義はフロントが人民を指導し引っ張るわけで。

以下、ばかばかしいので略。


日本のサヨク=上から恩恵的に与えられた、自由平等思想、楽観的平和主義、弱者と連帯する民主主義などに、お馬鹿なせいで、押し付けられた理由を知らずに未だに惰性でただただしがみ付いてる奴らだって、思いたいわけでしょ……自尊心を守りたいから


まあ右翼左翼の何たるかを知らんから、仕方ないわけだけど。

例えば、自由と平等は相並び立たない思想であって、私が、自由はむしろ右翼思想であると言っても、??って思っちゃうわけでしょ
posted by 日本海式エビ固め at 11:21| 天津 | Comment(5) | TrackBack(1) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月05日

年金は崩壊しないナリよ

地方の社会保険事務所に配属になった近しい知り合いが二人ほどいるが。
どんな心境でいるのやら。散々批判され且つ、公務員としてのはしごを外された格好。


しかし、ここ最近になって初めて自覚したんですか?世間は。
年金制度のいい加減具合や崩壊具合をさ。

…まさかね。現に一般人の私が知ってたんだから、だから国民年金は断固納めてなかったわけだから、大体の耳には入ってるはず。

衝撃的に大きく取り上げられない限りは聞き流すんでしょうねー。なんてオプティミストなんでしょう。

底が抜けてるつってんのに、納め続ける奴。大丈夫?頭。


曰く、「年金制度は100年安心です」「年金制度が崩壊する時は、国が崩壊する時です」。

あーー、確かにな。崩壊する事はないだろうね。

だってご他聞に漏れず、「年金が崩壊した」「崩壊してない」つー事態の定義は行政がするわけだしょ?というか押し付けてくるわけだしょ?

給付水準が、約束水準の3割になろうが1割になろうが、あるいは水準を維持するために何十兆の借金をしようが、崩壊してないといえば、してない。

100年どころか、年金制度は千代に八千代に不滅です


実際に、水準は下がってきているし、受給年齢は後退したわけだよね?
すなわち、支配階級は財政が苦しくなったら、またこうやって法律ちょこっと変えるわけでしょ?

そんなんを信用しろってか。

あのー、なのに何で文句も言わず能動的に納め続けるんですか?これ契約反故だよね?

なぜ暴れない?

ないし、なぜ「じゃあもう納めねーもんねー」ってならない?


だって、だってですよ。うちの母親は私の国民年金未納分を肩代わりして払うからって言ってますから。…はあ??なぜ??

この状況で、敢えて、敢えて納めようと、なさる。

てめの元に返ってきた年金を、敢えて返還の一手と。

やはり戦中生まれは違うなと。満州から引き上げはさぞ辛かったろうと(笑。


あー、年金制度基本テーゼは次回やります。
posted by 日本海式エビ固め at 15:07| 天津 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月12日

表現の自覚

http://pixie0619.livedoor.biz/archives/50803945.html?1165924740

おなじみ、愛すべき勘違い野郎こと酒田市民氏の記事への私のコメントをアップ。
まともな反応を待つ。

>要するに日本さえ戦火に巻き込まれなきゃそれでいいってことだ

んと、仮に21の人がそういう考えだとして、それの何がいけないのかね。

近代国家は基本的にテメエのことを主にして思考するわけだけど? 

イギリスもアメリカも孤立主義を取った時代が比較的長く続いた過去があるのは知ってるよね?その時の政権はおおむね保守。

今じゃアメリカは自由と民主を道義として「戦争」を世界へ輸出するようになった。かかる自分が確信した理念で世界を一色にしようとする営み(解放と言う)は、歴史的には左翼的志向、ナポレオン以来。ネオコンは転向左翼つーのは誰でも知ってるネタだしょ?

そういや、この話はもうレクチャーしたな(笑

最近、追及すると、これは自分独自のオリジナルであると開き直る奴が多い。

過去を参照せずに、何がオリジナルなのか。

政治を云々するのに学問的に通用しなくてもいい、自分だけでないし仲間内だけで確信していればいいのなら、ネット上に公開する必要全くなし。

それは表現としての要件を満たしてない。公にさらす意味を踏まえているか。


音楽でも何でも、何の世界でも私の嫌いなのは、バカによるゴミの大量生産だ。どうせ消えるからいいんだけど。

現状のような文化程度&民度では、表現として耐えないレベルものに対して、「あなたのつくったそれはゴミですよ」って一々教えてあげる公教育が必要だな。


ゆずとかに(笑
posted by 日本海式エビ固め at 21:43| 天津 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月09日

正統的保守

政治学のイロハ。具体例を以って解説。

pixie酒田市民#0619のブログ:舐めるな
右派はともかくとして、社民党が気にいらない。悪魔の温床、共産党と、同じ。自由が一番!
Posted by 凪★ at 2006年10月06日 06:31

凪ちゃんもサヨクなんだね

自由が何故正義と言えるのかな?
Posted by pixie酒田市民#0619 at 2006年10月07日 13:04

まずもって、自由の価値に対して唾する者は、自らネットでの自由な言論を放棄せよ。

だれが一番自由の恩恵を受けているかを自己批判した上でモノを言え。


というツッコミは置いておいて、自由主義をその中心的な理念にするのは、左翼なのか?という問題だ。

違う。

左翼は手段として個人の自由を揚棄する。歴史を参照すればすぐ分かることだ。

右翼もそうじゃないか、って思うでしょ?

確かにそうなんだけど、伝統的なスタンダードな保守と言うのは、我々の自由を守るためにどうするかって考える。

対国王や皇帝、あるいは諸外国に対して、我々の自由や利益を死守するわけ。だから基本的に孤立主義だ。「光栄ある孤立」と言う。これも歴史を参照すればすぐに分かる。


えーと、だから凪さんの政治学的認識は基本線であってる。

いつもながら、酒田氏は基本的に政治学的認識が、と限定しなくとも、一般的に学問レベルの知識が、ない。

ないから、俗説しか述べれない。コメントが悉くズレる。

まともな学者の本を読んだことがないのであろう。第一何がまともかすら判断できる蓄積がないのだから、仕方がない。


何事にもイロハがあり、イロハのイを理解しているのか否かというのは、すぐにバレる、とゆーことだな。
posted by 日本海式エビ固め at 13:27| 天津 🌁| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月23日

パトリ!久しぶり!

与党による教育基本法改正の動きあり、再び愛国心論議の高まりつつある中、議論がまたも振出からになってしまわないための、メモ。


「確かに偏狭な国家主義(またはナショナリズム)はダメだが…」、と言うことによってあたかも純粋に健全な国家主義(またはナショナリズム)が実在するかのような言い方をする奴がいる。

何度も言うが、ナショナリズムは良くも悪くもナショナリズムである。それ以上でも以下でもない。


また一方では、「ナショナリズムはダメだが、パトリオティズムはイイのだ」という向きも最近見られる。

こうした混乱も、その原因は「愛国心」という語の曖昧さにある。


ナショナリズムnationalismとは、語義を優先させれば(nationとは第一義的には国民なので)正しくは国民主義である。

だから当然これは近代以後にのみ可能な思考だ。(←この意味が分からなければあなたはもっと勉強しなきゃならん)

ナショナリズムがダメだと言いたくなるのは、最も想起されやすい国家主義という訳が背負っている歴史性だろう。

パトリオティズムpatriotism(音的にはペイトリオティズムのほうが近い)とは、これも語義から言えばpatri、すなわち「郷土、ふるさと」に対する愛情と言える。

藤原正彦はこれは「祖国愛」とするがパトリオティズムという語自体にその対象範囲を国土に限定する必然性がないと思われるので、訳として「国」の字の使用は避けねばならないと私は思っている。「愛郷心」が最も適切だろう。

大体数学者が片手間に国家について書いた本をありがたがる民度を疑う。

パトリオティズムが、その意味において「祖国愛」へと国民国家の範囲に拡大、スライドして何の疑いを持たれないこと自体が、その国家が近代化を遂げたことの証左である。このプロセスはナショナリズムの勃興、またはその介在無くしてはありえず、国民化などと言われる。


大方の素朴な方々は、このパトリオティズムや愛郷心の意味や感覚でもって、無邪気に「愛国心」と使ってしまう。

それゆえ「私の言う愛国心は国家主義(ナショナリズム)ではない!」となるのだ。


伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。(教育基本法改正案より)

「我が国と郷土を愛する」ネ〜〜。

自称愛国者の皆さんに注意申し上げたいのは、「郷土を愛する」の部分ですでにパトリオティズムについては十分書かれている。

とすれば「我が国」とは何なのかをお考え頂きたい。

既出なので少なくとも郷土、ふるさとの意味ではない。では国家のことなのか、あるいは政府のことなのか、または国体のことなのか。

上のいずれかなのであれば、なぜ明確に書かないのか。法律なのに。

私は、これこそ各人の多様なパトリへの感情やエネルギーを、政治権力へと一元的にスライドさせるためのレトリック、そういうレトリックとして機能してしまう危険性があるんだと言いたい。


それほど「国(クニ)」は取り扱い注意の語なのです。


参照
パトリオティズムとナショナリズムの愛国心1:人類の集団社会の歴史的変遷
我が「愛国論」と、そのベースとしての「民族論」
posted by 日本海式エビ固め at 00:52| 天津 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月19日

両立不可能性

物を言う時に大事なのは、命題同士が互いに矛盾しないかどうかに敏感であること


A:人間の生は受精した瞬間から始まっている

B:堕胎にも殺人罪を適用すべきだ



AとB、それぞれを別個には主張しうるが、A且つBは無理

法が支配するフツーの社会なら無理だ。


なぜならば、……答え合わせは↓

堕胎にも殺人罪を適用
posted by 日本海式エビ固め at 23:15| 天津 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月28日

反応=責任 レスポンシビリティ

下で紹介したpixie酒田市民#0619's 独り言昨日の記事に、久々に長めのコメントつけたんで、その記事と一緒にアップします。

右翼を自称するからには、ソレ相応の知識と、ことさら応答責任がなきゃ困るよということで。近頃跋扈するヘタレ右翼でないことを証明できるかどうかは本人次第でしょう。そろそろしっかりとした応答ができなければめでたくヘタレ認定です。反論するために生きてるわけじゃないって言うけど、はじめに喧嘩を売ったのはそっちで。それじゃああまりにも無責任、右翼の風上にも置けないです。長いこと待ってるしねこっちは。


2005年12月27日
1068人の人身御供を戦勝国に差し出した日本


昭和20年8月15日日本はポツダム宣言の条件を受諾して降伏した

よく言われる「無条件降伏」というのは全くの誤りで実際は「有条件降伏」だった


8月15日の「終戦」は日本軍による戦闘の終結だけを意味する

国と国との関係はたとえ武力の行使がなくとも

サンフランシスコ講和条約が発効し国交が回復した

昭和27年4月28日まで戦争状態が継続されていた


その間はいわば「終戦後の戦争」が行なわれていた

東京裁判を始めとする「戦犯裁判」だ

「戦犯」とは戦勝国側の一方的な呼び名で

実態は報復のために殺された戦死者である!


第二次大戦後に起きた朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争を始めとする数々の戦争において

敗戦国が戦勝国に人身御供を差し出したのは先の米英の対イラク戦争だけだ

日本だけがそこまでの戦争責任を課せられたのだ!


東京裁判の裁判官の中で唯一の国際法専門家
インド人のラダビノート・パル判事は
この裁判自体に疑問を呈している


「儀式化された復讐のもたらすものはたんに瞬時の満足にすぎんばかりではなく
究極的には後悔を伴うことはほとんど必至である」

「(もし有罪判決を出せば)法律的外貌をまとってはいるが
本質的には政治的である目的を達成するために本裁判所は設置されたに過ぎない という感情を正当化しうる」

こういってパル判事が「被告人全員無罪」の判決を出した


東京裁判と並行し戦勝7カ国がそれぞれ各地で「BC級戦犯裁判」を開いた

戦争裁判は戦勝国も犯している

だが戦勝国の犯罪は一切問われなかった

日本人弁護士が広島長崎の原爆投下について言おうとするとアメリカ人弁護士が強硬に反対した

それは裁判とは名ばかりの戦勝国が敗戦国を一方的に裁く集団リンチだった


そんな「裁判」の結果BC級戦犯として1061人が処刑された



日本は冤罪を受け入れて相手の報復感情まで満たしてやったのだ!!


サンフランシスコ講和条約はいわば戦勝国に差し出された1068人もの人身御供の命と引き換えに調印されたものだ


我々の現在はその人々の死体の礎石として成り立っているのである


そんなことも知らずに「日本は未だに戦争責任を果たしていない」等とのたまう奴らがいる

それは死者を踏みにじることを言っていると気造いているのだろうか?


それともあと100万人くらい絞首刑にならなければ戦争責任を果たしたとでも言うつもりなのか?

日本の被害ばかりを言い立てるのではなく加害の事実にも目を向けるべき

などと言う偽善者がいる


日本人に「完全降伏して抵抗の術もない者を報復裁判にかけたような加害の事実」があったのか?

都市に原爆を投下して大虐殺したような加害の事実があったのか?


わたしは同士を募りたい。

8月15日に共に靖國神社を「公式参拝」し、
公を守るために命を捧げたカミに感謝する同士を!
ネット上で大々的に呼びかけかけるか...

ってカミ様の前でそんなことしちゃ駄目か


以下私のコメントですわ。


>日本だけがそこまでの戦争責任を課せられたのだ!

日本だけが過度に罪を負わされ、日本だけが過度に謝罪させられ、日本だけが過度に財源を負担させられ、日本だけが悪者にさせられ、日本だけがバッシングされ、日本だけが、日本だけが……。…他の国もやってるのに……。日本だけが割りを食っている。

ダグラス・マッカーサーは当時の日本の政治的民度を12歳レベルと酷評したが、未だに延長しているこうした主体性の無さ、政治的な幼稚さを見るにつけ、生きていたらどんな顔をするのか。さすがにグラサンがズレ落ち、パイプも落っことすのではないでしょうか。

極東軍事裁判が完全に公正だとは私も思いませんが、だったらすぐに自分たちで戦争を再総括すべきなのです。「大東亜戦争」は聖戦だった、亜細亜解放の大儀があったと、国民で再総括すればよろしい。そして世界に向けて国連などで堂々と宣伝しなさい。

でも、どんなかたちでも、できないじゃないですか。してないでしょ60年。
これはあの制定やサンフランシスコの考え方、つまり裁定を受け入れることを条件に日本は国際社会に復帰するという取り決めが、変更されていないことの証左なんです。
あの裁判を受け入れないのならば国際社会にも入れません。今の北朝鮮のような状態でしょうね。時の政府がそれでいいという判断をすればそういう結果だったわけで。それでよかったですか?

要点第一。「だって先生、○○君もやってましたー。悪いのはボクだけじゃないヨー」←これ小学校に入って一番初めの頃に、矯正される幼稚な態度ですね。それが悪いことだろうがいいことだろうが、何でも集団の中に埋没すれば(または出る杭を打ち埋没させる)それで安心する、それが最善の振る舞いだとする価値観。これを「世間」と言い、研究対象にする学者もいますが。はっきり申し上げてそんなもんは国際社会に通用しません。失笑を買うだけ。曲がりなりにも一個の独立国がとるべき態度ではないことは敢えて言うまでもありますまい。

第二。サンフランシスコ講和条約(1951年9月)の歴史的意義について。まずこれによって日本は主権を回復。また連合国(諸国)との講和ですね。共産圏とはここでは結局講和せずですが。
で、これには条件というか大前提があります。すなわち極東軍事裁判の考え方や裁定を受け入れる、コレです(第11条)。これを大前提に日本の主権の回復、延いては国際社会への復帰があるわけです。よろしいですか?ここ重要ですよ。

極東軍事裁判については、公正というものを知るものならば誰が見ても部分的に意義を差し挟みたくなります。それは改めて声を荒げて喧伝するような大発見ではございません。だいたい有史以来戦争の後に開かれる裁きにおいて、被告側からも納得の行くような裁定のものってあるんですか?だから公正さは取り戻さなくてもいいなどとは言いませんが。

あの裁判は全くのデタラメで何の正当性もない、だからあんなのは受け入れなくていいのだという考えは、人間の歴史的限界というものを無視している。それこそ事後法で過去の人間を裁く愚を冒していると言えましょう。そういう方々は、主権のない国、国際社会から排撃されいているところに身を置き、再度考えてもらいましょう。


それと、細かいけれど意外と重要なこと。

>昭和20年8月15日日本はポツダム宣言の条件を受諾して降伏した

正式にはこれマチガイです

1945年8月15日は国内向けの敗戦(宣言というか)日。「玉音放送」です。
際的に正式に降伏したのは、1945年9月2日戦艦ミズーリ甲板にて、です。国際的には大日本帝国降伏はこっちで通用します
8月15日が「終戦」のシンボルになってますがそれは飽くまで日本国内での話。朝鮮なんかでは8月15日は光復(独立回復)記念日であって、だからその日がことさら問題になるわけです。

歴史では、事実上の○○と、正式な○○というのを峻別したしますので、ご承知置き下さい。


参照 日本国との平和条約/Treaty of Peace with Japan(サンフランシスコ講和条約全文)
posted by 日本海式エビ固め at 00:13| 天津 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月26日

小泉・靖国組 対 インリン様・憲法組

再びインリン・オブ・ジョイトイの日記からだ。2005年10月21日沖縄の海を守れ!では、米軍駐留を批判した後、
そして、小泉首相が靖国参拝をする度に、アジアの国との溝が永遠に消えないと思う。
靖国神社は天皇を神だと言って日本の侵略戦争を美化したファシズム宗教の場所です。
戦争で犠牲になった日本軍人や一般の日本国民の中にも仏教の人もキリスト教の人も反宗教の人もいます。
国家の為に死んだのでも侵略の為に死んだのでもなく、英霊とか言われる為に死んだのでもなく、日本の権力者に騙され追いつめられて、それが家族を守る為だと思い込んで死んだんです。
英霊だなんていわれて祭られるのは迷惑でしょう。
当然、首相の参拝なんて、日本に殺されたアジアの人達には侮辱的なことです。
戦争の犠牲者に敬意をはらって反省し、二度と戦争しないって誓うのなら国家神道ではなく無宗教でお願いします。
インリン様。あなたいつもながら直球勝負ですね。ハッスルのあなた結構イイッスネ。まそれはまた今度。
これをネタに色々展開しましょう。

確かに戦後憲法下、本人の意思ないし遺族の意思に反して、(合祀はできるが)柱を分祀できないとする靖国神社の姿勢、またそれを支持あるいは放置している行政府には首を傾げざるを得ません。

さて首相の靖国参拝について意見を述べたい。

まず日本国は政教分離の近代国家として存在する。

日本国憲法第19条 
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第20条
 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
ウェストファリア条約(1648年)を契機として、近代国家は政教分離をその原則とする。特定の宗教を国教と定めることはもちろん、優遇したりスポンサーになったり結果的にも利するような行為は、国家や政府として、引き付けて言うと要するに公務員その他公職に就いている者が、その名の下にしてはならないと言うわけだ。
ということは逆に言うと、単なる国民(私人、私的)としてならば、19条、20条の一項がそのまま適用されて、当然OKである。要は公人としてはダメだと言っている。
第99条 
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
公職に就いている者が、公然と憲法に背くような行為をしてはならない。憲法尊重義務と言う。(ただし例えば政治信条として改憲を主張したり公に論議したりすることまでは全く妨げられない。)
これは例え、こうして条文化されていなくとも、憲法を尊重する義務が、政府をはじめ公職に就いている者や機関には課せられる。

当然だ。憲法とは国民による政府への命令だからだ。だから国民には憲法を守る義務は、ない。権利は、ある。守る義務があるのは政府


本題です。

内閣総理大臣は紛れもなく、公人です。それから靖国神社は現在は、神道なる宗教の宗教法人です。
よって公人としての、一宗教施設の参拝、宗教的行為は、特定宗教を結果的に利することになると言え、憲法第20条の政教分離原則違反、また司法がそう判断すれば、その後の参拝継続は第99条憲法遵守義務違反にも該当すると言えましょう。

憲法を素直に読めばこのように答えは極めてクリアに導出されると思うのですがね。

小泉総理は自らの行為の正当化のために、常に思想・良心の自由や個人の素直な心情を持ち出しますが、そればらば私人として徹底的に私的に参拝すればよろしい。公用車を使い、公設秘書や公費の(?)ボディガードを引きつれ、「内閣総理大臣小泉某」と記帳する、それでいて「私的」とは、誰がそんなん納得するんでしょ。

平日ならちゃんと時給(という制度があるかないかは知りませんが)を取って、タクシーで乗りつけ、拝むなりひざまづくなり、玉串なぞを総理買いして捧げるなり、大嫌いな中国や朝鮮の崩壊を祈願するなり(思想の自由)、毎日朝昼晩壁にに頬ずりしようと構いません。公人としてじゃなければ何をするのも自由ですよ。ただし憲法的には、という意味においてですが。

つまりその上で、参拝するかしないかは一国のトップとしての、その情勢におけるまさに総合的な判断。政治的センスの問題に移行します。


…しかし「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」とは笑うな。なんだみんなでつーのは。


参照
The DEBATE
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会が靖国参拝
posted by 日本海式エビ固め at 00:14| 天津 🌁| Comment(9) | TrackBack(1) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月06日

レトリカルにロジカルに愛国心

ナショナリズムや愛国心を論じる際、偏狭な、偏った、歪んだ、扇動された、排外的な、それはダメで、そうではない類の健全な、純粋な、正しい、正常な、普通の国のそれはよいのだ!、なんていうレトリックってよく見かけますね。

例えばこんな感じ(手近なところで再び宮城スタジアムに響いた「君が代」の大合唱から引いてみましょう)。
試合開始以前に、私は宮城スタジアムに詰めかけた若いであろう人々の健全な気持ちに感動したのです。
日教組が、あれほど学校で国歌斉唱・国旗掲揚に反対して醜い活動を繰り広げてきたにもかかわらず、闘いの場に臨む日本選手に「君が代」を歌って声援を送っている若者達、サポーター。
この場面を日教組の面々はどう見ていたのでしょうねえ。
 「君が代」は皇国思想を強調するだの、軍国主義に引き戻す危険性があるだのとノタマワッテおいでだったが、この光景はそれに似て非なるものではないか?
と言って、韓国のように偏狭なナショナリズムに没頭している訳でもない。
やはり、オリンピックやこのような競技において聞く「君が代」は、純粋な愛国心に通じる感情を呼び覚ましてくれるものでしょう。
前者はダメで、後者はよろしい、と直接には述べられてませんが、軍国主義や韓国のよろしくない例を出し、それと対比する形で我が健全な愛国心のよさを際立たせる、おなじみのレトリックがよく出ている例でしょう。

んで、同じような問題関心を持っている方がいました。これを批判する形で持論を展開しましょう。
「健全なナショナリズム・偏狭なナショナリズム」という二分法がある。こういうことを言う人はたいていナショナリズム(しかも、我が国のナショナリズムのみを!彼らは、中韓朝あたりのナショナリズムには、いたって好意的である)を否定する人たちであり、為にする議論、という面が強い。健全なナショナリズムについての真剣な模索などはなく、ただナショナリズムを鼓吹する人たちの議論を偏狭と決め付けたいだけである。
この二分法は、ナショナリズム肯定派、否定派を問わず広く見られると思う。まあそれはよい。

えーと、何でもそうだと思うんですが、「健全な」とか「偏狭な」とかいった、それ自体にプラス(よい)の価値、マイナス(悪い)の価値を帯びたような修飾語を使っちゃうと、その後に続く「ナショナリズム」という語に対する価値判断を、自動的に既にとっていることになるわけでして。それを再度いいとか悪いとか言っても意味ないでしょ。「よい……はよい」「悪い……は悪い」と言っているのと同じ。トートロジーだ。

もっと正確に言うと、初めから価値判断をしているから、「健全な」とか「偏狭な」とかいう言葉を、価値判断するところのものの前につけるのだ。
要は、ある国のナショナリズムを否定したい場合には、それの前に「偏狭な」とつけ、逆に肯定したい場合には「健全な」とつけているに過ぎない

例えば、公共事業には必要な公共事業もある、などと族議員などが言い逃れようとする時、じゃあそれが必要かどうかの基準は誰基準で言ってるのかというと、当の族議員自身の自己保身のための基準で必要かどうかが既に決まっているのと同じで、「健全な」「偏狭な」という区別も、その基準は客観的な条件から導出されるのではなく、往々にして判断を下すところの当の本人の政治的に好みに由来する

次いで永岡氏は以下のように言う。(ここからが永岡氏の本旨で、上のは一般的な言説への批判ですのであしからず)
私に言わせれば、対立は「歪んだ愛国心(というより愛国心の欠如) vs. まっとうな愛国心」の間にある。そして私自身はもちろん、まっとうな愛国心の持ち主でありたいと思っている。
一般的な区分「偏狭なナショナリズムvs.健全なナショナリズム」ではなく、「歪んだ愛国心(というより愛国心の欠如) vs. まっとうな愛国心」が本当の対立だと言うわけだ。

これは、ナショナリズムと愛国心とを混同していることを無視するとすれば、とりあえずのところ条件付で同意してもよい。言葉の次元では理解はできる。
条件とは、「歪んだ」と「まっとうな」とを分ける基準は何か。あるいは何をもって愛国心と認定するか。これの提示だ。これがきちんと示されない限り、何も言ってないのと同じではないか?
排外や理不尽な差別や国粋は「偏狭な」「歪んだ」それであって、とても「まっとうな愛国心」とは言えないのだとすれば、実際上の「まっとうな愛国心」の用件が不可欠ですよね。

言いたいこと。ナショナリズムはナショナリズムである。それ自体としてはいいも悪いもない。ただ現象としては、よい現象も発生させるだろうし悪い現象も発生させるだろう。「健全なナショナリズム」からはよい現象だけが、「偏狭なナショナリズム」からは悪い現象だけが生み出されるわけではないのだ。

ただ「ナショナリズム」だけがあるのだ

参照 カテゴリ考(ナショナリズム関係あります)
posted by 日本海式エビ固め at 22:43| 天津 🌁| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月27日

斜に構えて愛国心

宮城スタジアムに響いた「君が代」の大合唱に私が貴重なコメントを書いた(笑。詳しい顛末はそちらを見ていただくことにして、せっかくなんでこちらの陣地でもさらに話題を広げてみよう。

〔エビ〕
>こうした情景というのは、偏狭なナショナリズムの高揚でもなければ、残念ながら純粋で健全な愛国心の発露でもない。

エビさん、まあ、そんなに斜に構えないで下さいな(笑)
私は「純粋な愛国心」だと思いますよ。「単純なノリ」そのものが日本流の愛国心ですよ。
現代の日本は、一神教を戴く単一民族や、共産主義という新しい形の宗教を持つ国のようにナショナリズムは育たないと思っています。強い民族主義的な感情は、日本には本来存在しなかったのではないかと思っています。だから、patriotismは、民族、国によってその定義(それ自体が無理だと思うのですが)はかなり異なると思います。しかも、心情・情緒的言語であって、決して政治的言語ではないと私は思っています。
だから、日本の愛国心はより情緒的な感情、つまり望郷心、仲間意識に近い緩やかな感情だと思うのですよ。お国自慢にも似た、日本の風土や文化を愛するという気持ちが愛国心だと思います。そういう意味で、同じ仲間意識を共有する場が提供されたのでその気持ちの発露として歌を唄っただけ。そういう意味ではあなたと同じベクトルにはなりませんかねえ??私もこれが国粋主義的なナショナリズムに変化でもしたら危険だと思いますから・・・。
Bach@管理者

まず最も基本的な部分。内面と外面の問題。愛国心は、もっと正確に言えば、自分の所属する国家や国民を大切に思うだとか愛するだとかは内面の問題。国旗・国歌に対してどういった態度を取るかはあくまで外面の問題だ。そこで、二者の因果関係を考えるに、それは必ず前者から後者へ関係、影響しなければならない。お分かりだろうか?これは単なる論理的な問題だ。要は国旗・国歌をモノとして愛でる事がすなわち愛国になるのではないということ。あくまで内面の充溢としての外面への表出だということ。ただし、そこにもさらに問題があって、愛国心の表出として国旗・国歌に対してある定型の態度をとる事を、よしとしない、あるいはそぐわないと感じる場合もあり得ることを付け加えておく(が、これには今はこれ以上立ち入らない。私などはこの手合いだ)。

Bach氏は、私エビの指摘した「「単なる同調、場の盛り上がりのノリ」そのものが日本流の愛国心」だ言い、且つそれは「純粋な愛国心」だとする。

いや、違う。それだと単に酒場やクラブやお祭りやパラパラやノマノマ(ウゼ!)で場が盛り上がるような、いつどこでも起こりそうなことと同列の事象になる。そこに国旗・国歌があれば即愛国心の発露なのか??もしそれをそうだと認めるのであれば、前述の因果関係逆立ちによる誤謬(外面→内面)に該当する。


さて、Bach氏の上のコメントには愛国心、ナショナリズム、パトリオティズム、民族主義的な感情…と出てきますが、私にはややそれらの違いが読み取れない。

ちょっと整理してみましょー。

ナショナリズムとは、国民(ネーション)の維持発展を目指す。国家形態が国民国家(ネーション・ステイト)、つまり国民=国家(国家はまさに国民のもの)であると思えるような形にまで発展していないと発生しない。国民主義、国民意識の訳が妥当かと。ナショナリズム=排外主義の通俗的な、なんとなくの理解は、おそらく日本の政治的センスの後進性の表れでしょう。

…だから「民族主義的な感情」とおっしゃったものがナショナリズムのことだとすれば、日本に限らずどこの国や地域でも「本来(とは近代以前にはという意)存在しなかった」わけです。

パトリオティズムとは、元来は愛郷心、郷土愛のこと。国民意識が芽生え、国土=郷土と思えるようになる(これ自体がナショナリズムのなせる業)と、さらに愛国心、愛国主義と融合する(と私は理解する)。愛国主義と訳されることが多い。

愛国心は、基本的に上の二つに分類されると思う。とゆーか、区別しないと議論上大変困る。「愛クニ(国or郷)心」と私には見えてしまうからだ。だから使わないんだけど。んで私は愛国心のスタンダードはナショナリズムだと理解している。

序に言うと、ナショナリズムは民族主義的な部分も確かにあるのだが、原理的にはそれぞれの民族や人種、それぞれの郷土や文化・習俗をある意味で止揚したところに生まれるのであって、だからこそ地球上のどこへでも伝播する力を持った。これが一つの国民としての(民族ではなく)統合です。同じ民族なら統合する必要がそもそも、ない。

でも、おっしゃるように民族や文化の固有性を情緒的に人々に訴える、言い換えれば人々にパトリやエスノを通して訴えるのはナショナリズムの特色でもあり、これは日本固有の側面では全然なく、ナショナリズムの形式的普遍性なのです(cfベネディクト・アンダーソン)。


…で、本題だが、国旗・国歌は国民統合の象徴だ。国家=国民であることのシンボルだ。なのに、そんな意識とは全く無関係な「単なる同調、場の盛り上がりのノリ」の上に、ナショナルな国旗・国歌だけが下賜され、それに合わせて単に決まりきった同じ行動を取っていることを、愛国心の表れなどとどうして言えようか??むしろ後進性の表れに私には映る。

逆なのだ。この国家はまさに我々国民の生み出した(正確に言うと契約した)国家であり、故に参加するし、故にその命令を守り、故にそれに対して責任を持ち、故に愛する。故にその象徴であるところのものに対して敬意を表するのであって。この理路が近代国家のスタンダードだ。そういう理路が当たり前になる前提が弱いならば、その分だけ政治的に後進国だという証左だ(つまりマッカーサーにミソクソに言われて以来進歩なしということ(笑)。


ちなみに、このことから、例えば私は教育現場での国旗・国歌の強制には反対なのだ。なんでって、強制されたって愛国心の涵養そのものとは何の関係もねーし。特定の心情や歴史を持った人に不条理な記憶を残すだけでしょ。


※どなたでもコメント歓迎ですが、そのレベル如何によっては無視、最悪は記事のネタになります(笑。


参照 普通の国になります!誰でも語れる愛国心
posted by 日本海式エビ固め at 00:00| 天津 | Comment(10) | TrackBack(2) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月25日

二人で語った愛国心

誰でも語れる愛国心に貴重なコメントを頂いたので紹介する。
地球上の人間が皆愛国心なしで生活出来る時代がくるのが理想と思うが、まず不可能だろう。外国に行くのにまず国籍がないと入国させてくれない、日本国がきらいだからといって米国人、にも中国人にもしてもらえるわけがない。個人の誕生は自分の意思に関係なく親も国も選択することができない。必然的な関係を、愛する心を持つて接すること、に疑問をもつ人間がいるのが不思議だ。
Posted by 十河正昭 at 2005年09月16日 10:50
これについて私はこう反駁した。
個人を国家の成員として、すなわち各々の国家が国民として認証するというシステムは、(近代的な)国家形態の変容そのものによって要請されたことである。個人を国家の成員として把握しようとする、あるいはそうせざるを得ない観点そのものが歴史的だということ。

これは論理的な話だが、関係が真に必然的なならば、敢えて愛する必要はないわけで。当然愛国心を呼びかける、なんて面倒な作業は必要ないわけです(笑。
Posted by エビ at 2005年09月16日 23:46
どうやら十河氏は、私エビが愛国心を地上から駆逐するという理想を追求している人間、そして日本が嫌いな人間だと読んだらしい。

いったいどこをどう読めばそう捉えられるのか?愛国心という語の使い方自体への注意点や、私個人としてはその言葉は不便なので使わないとは確かに書いたが。

だいたい、国籍は愛国心の有無と関係あるのかしら。親や国については、私は自尊心が強いせいか、必然性よりも入れ替え可能性(このようでもあり得たし、あのようでもあり得た)をより強く感じるのだが。主体的に自ら選び直してこその愛着であろう。…なんだかサルトル臭いな
posted by 日本海式エビ固め at 22:36| 天津 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月29日

〈我々〉に回収され尽くすC

長らく中途になってました。

同じようなこと考えている方がいらっしゃるようです。

サッカーを愛せ報道者が感動を要求するな


さて、私が「〜をありがとう」という受け取り方にこだわるのはどうやらこういうことらしい。

「ありがとう」には、相手方(表現する側)の一人ひとりの多様な動機付け(何のために)やここに至る経緯(決して見せない膨大な努力)などの、一人ひとり違うニュアンスや表現に対する価値観を、一挙に消去して、全てひっくるめて「〈我々〉のために」の一点に収斂するように解釈する強力な形式上の作用を感じるからだろう。

例えば、初めからオリンピックの日本代表になって活躍し人々に感動を与えたいという動機で始める選手もいるかもしれないし、名誉や金のため、家族のため、単に好きだから、最も多いであろう自分のためとか、個人の中で動機は雑多で、多分色々組み合わさったりしてるわけです。(インタビューでは、プロですから自己規制や演技するから本心は不透明)

それに対する言葉としての「ありがとう」には、前述のように、〈我々〉のための意図的・意識的行為という仕方で、言祝ぎながら、動機などの個々の多様性・不透明さを無きものにした上で、手前勝手に一挙に処理する力があるので、言葉の上で一点の曇りも無い〈我々〉としての一体感に資することができる。


要するに、大した刺激の無い暇な〈我々〉の日常の余興のために、自分たちで無理やり感動する機会をでっち上げて、自分たちの好みに合うように加工し消費する、自作自演の作法なんでしょう。

感動の押し売り、また感動の仕方の社会的統制はファシズムの端的な始まりだとういうこと、これ念を押しておきたい。
posted by 日本海式エビ固め at 12:56| 天津 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月22日

誰でも語れる愛国心

忘備録的にメモしておく。

昨今、愛国心を敢えて大上段に語ることが、問題吹き出まくりの緩みきった戦後体制の漠然とした批判のポーズとして流通している。彼らのスタンスは、反米、反戦後民主主義、反共、反中、反韓国朝鮮、反日教組、反朝日、反アカデミズム(学知)、反市民運動、反9条、反平和主義…といったところか。まあ、それはそれでよい。またそれを端的に国粋主義的だとか右翼的だとも思わないし、彼らが罵る対象を、全て擁護したり守るべきだとも思わない。
問題があるとすれば、諸外国(諸先進国と言ったほうがいいかも)の多くの国民が持っているであろう愛国心と、彼らが愛国心という名を以って語っているところの諸意識とのズレだ。要すれば、愛国心の言葉が独り歩きして、愛国心、愛国心とは言うがその内実はそれとは明らかに別物という事態だ。
ただ厄介なのは、問題自体が個人の内面に関することなので、多少学術的な指摘しても、これが我が愛国心だ、文句あるか、と議論をリセットされる場合があるということ。

以下今日はポイントを列挙するだけに留めよう。

・ナショナリズムとパトリオティズムとの違いを弁える
・パトリオティズムとは愛郷心や郷土愛のことだが、愛国心と訳されている場合も多い
・愛国心をパトリオティズムとしているのも多い
・ナショナリズムは素直に訳すと国民主義が妥当だが、国家主義や民族主義とするのが多い
・パトリオティズムは自然感情と言えるが、ナショナリズムは近代以後のみ可能(非自然)
・日本では、国も郷も「クニ」となるため大変厄介、故に私は愛国心という語を使わない
・場合によっては、ランドもステイトもカントリーもパトリもネイションもガバメントも「クニ」になるから大変
・基本的に諸外国のスタンダードな愛国心とは即ちナショナリズムだと捉える

(注 例えばナショナリズムを何と訳すかなんてのは、それだけで学術的に論争的なテーマです)

端的には、会ったことも見たこともない人を同じ国民(同胞)だといきなり認識できるかどうかが、ナショナリズムとパトリオティズムの違いか(あるいは近代以前と以後の違い)と思うのですが、どうでしょう?
posted by 日本海式エビ固め at 02:11| 天津 🌁| Comment(7) | TrackBack(5) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月03日

普通の国になります!

普通の国って何ですか?

曰く普通の国になるんだと。ようやく日本は普通の国になると。

そうした文脈で、国旗・国歌の取り扱いやそれに対する作法だとか、日本人は世界の常識を知らない、恥ずかしいと。
世界の常識がそうであるからして、我が国においても学校教育においては強制するのが当然となる。これまでが誤りなのだと。

そこでまあ、暇なので、国旗・国歌の取り扱いに関する世界の常識を調べて見たんですが。残念ながら、まとまりがあるのはこれぐらいしか見つからないんですね。バーネット事件等々はおいといて、「世界各国の状況」(内閣総理大臣官房審議室、および外務大臣官房儀典官室による1985年資料「諸外国における国旗国歌について」から)のところです。こう注釈ついてるのである程度信用の置ける資料かなと。

…どうですか? ホントならオモロイ事実ではないですか? 色々オモロイこと言えそうなんで、私の感想は次回にまわします。

反証できる事実を発見もしくはご存知の方はどんどんご意見下さい。
posted by 日本海式エビ固め at 01:28| 天津 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月29日

〈我々〉に回収され尽くすB

内容は日記ではないですが、日記的にアップします。

「ありがとう」とは、通常「私に〜〜をしてくれてありがとう」というふうに、当方にもたらされる何らかの(利益になるような)行為において、相手のとるその行為自体が(普通は善意の)意図的・意識的だと認められる場合に用いられるのではないか? 

ここで論じたいのは、言葉の正しい使い方などではない。

近頃とみに人口に膾炙したこの手の言説で、〈我々〉は一体何を社会的に欲望し、さらにはそうした欲望を成就することによって社会的コミュニケーションにとって一体何が変化するのか、だ。それを端的に論じたい。


>マダム
>この部分に至るまでの想像力が見る側にあるから感動もし、経験はなくてもとても良いものを見せてもらったと素直に思えて「ありがとう」になるのだと思う。

まず先に素人が可能な想像力の限界を認識すべしと言いたいところだが、それはこの際よい。ここでの問題に則して言えば、なぜ「ありがとう」なのかというところ。スゴイとかスバラシイとかではなく、「ありがとう」と口を突いて出てしまう〈我々〉の語彙や、それに特に違和感を感じないメンタリティ。なぜそうなのか、なぜそうなったのか、だ。
posted by 日本海式エビ固め at 12:30| 天津 | Comment(5) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月27日

〈我々〉に回収され尽くすA

「夢をありがとう」「感動を与えてくれてありがとう」系の言説。

オリンピックをはじめとするスポーツ競技から、CMでの映画の数秒コメント、最近では巷でデカく掲げられてたりする市町村の市民の標語やキャッチコピーなんかでも、目や耳に入ってきますね。

でもスポーツ見て、最終的に出てきた言葉が「ありがとう」っておかしくないか? 

例えばオリンピックを見て、そこから受け取った「夢」って一体どんな夢ですか?

代表になるようなアスリートは、それぞれの競技で表現できるまでには、天賦の才にそれこそ努力に努力を重ねており、我々が目にするのは、砂の山の頂点の砂の粒一粒のようなもの。その頂点を表現するために、それを支える無数の努力の砂粒がある。我々はそれを直接見たり経験したりすることはできない。
posted by 日本海式エビ固め at 02:07| 天津 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月13日

〈我々〉に回収され尽くす@

「夢をありがとう」や「感動を与えてくれてありがとう」みたいなのが、ここ数年ですっかり人口に膾炙してしまいましたが、私の記憶が正しければ、阪神大震災の後、そのシーズン、オリックスの大活躍がありまして、それに対して主に神戸の人々が使ったんだと思います。これが走りだと思われます。

続きはまた今度。

bk1リニューアルしたね。
posted by 日本海式エビ固め at 21:43| 天津 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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