2006年02月03日

勘違いな公共

公共批判第三回目。公共とは何かです。締めくくりになるかどうか。

はおなじみ金村キンタロー激似の酒田市民氏の発言、は私エビです。


「自分のために」を超えたところに「公=国」が現れる
2005年12月04日 個を超える勇気と誇り1


>「公=国」

公共性を国家に還元できると言うならば、公と書くところを全て国と書けばよい。

古来から、公共性と国家の論理とはむしろ矛盾するのだ。古代ギリシアからずーっとそう。
1. Posted by エビ 2005年12月04日 22:15


国家???
エビさん、私がいつ、「公」≒「国家」だと言ったね?壁|〃´△`)-3ハゥー
2005年12月04日 国家???


>「自分のために」を超えたところに「公=国」が現れる

>エビさん、私がいつ、「公」≒「国家」だと言ったね?

なるほど。「国」と「国家」とは違うと仰りたいのですね??

違うなら「学術的に」どういう風に異なるのかご説明頂きたい。
1. Posted by エビ 2005年12月05日 16:25


以後これに関する応答なし。


以後誰でも分かるように手堅く進めていきます。


【公共 publicの意味】

1、一般の全ての人々に関わる  (公共の福祉、公益)

2、公開の  (公園、情報公開)

3、政府の、国家に関係する公的な  (公安、公共事業)


私が「公共性を国家に還元できると言うならば」と言った時の意味は3だ。govermentや stateが関わる意味での公共だ。要するに私は、そうじゃないでしょう?と、言葉の吟味を促しているのだ。

そして酒田市民氏は「公=国」の「国」は国家ではないと言う。

…じゃあ何なのか。

おそらくだが、氏は1の意味でイメージしているのだろう。公共心という言葉もこのカテゴリーに入るし。

…しかし。だったら「公=国」と、敢えて「国」を強調させる必然性はないわけです。でもでも、それでも「国」を強調したいわけは何なのか。

それは、公共性に関する根本的な勘違いがあるからでしょう。そしてそれは一般的によく見られる類の単なる無知なのです。ここまでで既にお気付きの方も多いと思いますが、以下ご説明申し上げましょう。


氏が「公=国」と言う時の「国」とは、つまりはnationなのだ。オーソドックスには第一義的に「国民」と訳すのが適当だと思うが(これは散々指摘してきた)、日本風に解釈を加えれば「国体」nationalityと言ってもまあ良い。
まあ「天皇を中心とする神の国であるぞ」みたいなメンタリティとか、大和魂みたいな、一種の国民(民族)共同性ですわな。そういう特に精神性に重きを置いた共同性を思い描いている、ように思える。


さて、ここで再び「公共性」とは何かという振り出しに戻り、これに関して明晰に定義したハンナ・アレントにご登場願おう。


【アレントによる「公共的なもの」の定義】

「万人によって見られ、開かれ、可能な限り最も広く公示されている現われ」「私たちすべてに共通する世界」


主体は「万人」であり「私たち」であると
ここで言う「万人」や「私たち」とは、彼女によれば、「共通性」のみならず、「独自性をもつ多種多様な人々の構成体」という意味で用いている。

すなわち「公共性」とは、多種多様な人々による自己と他者のコミュニケーションによって創出される現われ、と言えましょう。
さらに私なりに表現すれば、それを可能とする前提自体をも「公共」としたい。

何を確認したいのかお分かりですよね?

ですから、【公共 publicの意味】においても確認したように、あの中の3でなければ(公共心という言葉は3ではあり得ない)、敢えて国家の領域を限定して公共を語る必要は、定義上は、全くないのです。


我々の持つ公共心がどのくらいの範囲まで通用するべきと考えているかと言えば
やはり小林よしのり先生の言うとおり、日本国内が現実的だろうと思う「公」とは「国」のことだとして話を進めてみると
2005年12月01日 公共心と個


「公」…公共性というものをできるだけ広い範囲で共有できる人々の価値観を考えると、
中国や、韓国や、中東や、アメリカには、なかなか共有できない価値観がいっぱいある

ほとんど国ごとに「公」が異なっている。

我々の手に負える範囲の「公」は目一杯、拡げても同じ約束ごと…
言語・慣習・文化が共有できる「国」までだろう。

その意味で「国」=「公」と規定している

それが理解できない方が多いようだ
2006年01月26日 公の範囲


これらは、根本的な方法論が倒錯している様子が良く分かる例です。
要するに、公共とは何の謂いなのかすら知らないからこういうお粗末な論を只管展開できるのです。

端的に言えば、彼はある価値観を共有できる、ないし少なくとも価値観同士が衝突しない範囲を以って、公共性の可能な範囲としようと模索している。

デタラメです

価値観を以って「公」とするならば、「ほとんど国ごとに「公」が異なって」いて当ったり前じゃないか。そんな「公」は反公共的だ

公共とは、そういうもんじゃないのです。

ドイツ語では「公共性」の語源は「開かれている」という意味の語だ。誰にでもオープンであること。閉ざされていない、範囲を設定されてないことを以って、公共なんだから。公共には「内」も「外」もない。


そして、習慣や文化や価値観が同質である(と信じられる)範囲、これは共同性だ(逆に共同性は「外」の異質を以って「内」の同質を成す)。
共同性は共同体毎にそれぞれ異なるのであるから、他の共同体と共同性が違ってて当たり前なわけ。相容れない部分が有っていい。

むしろ。公共が要請されるのは、複数の多様な共同体間において、異質な共同性を持った共同体の成員同士でコミュニケートする必要があるからなのであって。

そもそも内輪同士なら公共要らないの分かる?


信じる宗教が違うから、人種・民族が違うから、時間の観念がズレてるから、女性蔑視な国だから、食事の仕方が汚いから、トンでもないことには反日的な国だから、…など、振る舞いが異なるから、だから我々の公共的な場から排除されて当然、ないしはできるだけ排除したいなんて輩。

こんな輩こそ、公共心のかけらもない反公共的な奴なわけです

こんな輩がこれ以上跋扈してはまさに国辱的。愛国に燃える憂国の志士ならこういうバカから順に鉄槌を加えるべき。


また、「公」「公共性」はひとつではない、という考えも述べておきたい。

「公」の範囲が「国家」であることも「地方」であることも「人類全体」であることもある

それらの違いを人間の認識力の拡大で、公共性の違いを認めなければならない

その人間の「認識力の拡大」こそが、現実世界におけるわたくし独自の「ニュータイプ」論につながるのだが
2006年01月04日 公と個に関してまたTB


というわけで、「公」の範囲を決めるなど何の学術的意味を持ちませんので。

今回は、公共論するなら、最低限公共性と共同性の違いくらい弁えて下さいというお話でした。


ただ、ニュータイプ論?、それは一見の価値ありそうですねー。


参照 
山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書)
斉藤純一『思考のフロンティア 公共性』(岩波書店)
posted by 日本海式エビ固め at 01:33| 天津 | Comment(5) | TrackBack(0) | 公共 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月03日

滅私奉公は森善朗の座右の銘

公共批判第二回目。

ネタがないと書けない質なので、どうしても言説批判という形式になってしまう。申し訳ないが、またまた例によって自称右翼酒田市民氏にご登場願おう。


国家アレルギーは 個人を異様に 偏重し
個人の権利のみ 声高に主張させ
個人への 義務や 制限を 取っ払い
公共心を 崩壊させゆく

私を滅し 制限し 公を優先させなければ
授業中 携帯電話が 鳴り出すのも仕方ない
2005年12月01日 公共心と個

以下、問題点を列挙しつつ批判する。


1、まず、すぐに「個」と「私」が混乱しているのに気付く。

おそらくその辺をきちんと考えたことがないが故に安易に互換させているだけなのだろうと推察するが。
公共論として成立させるためには少なくとも、「個(個人)」と「私」とは概念的に、どこがどのように異なるのか、またはほとんど同じ意味なのか、はっきりさせておく必要がある。


2、個人主義と利己主義は、意味的に峻別されるべきである。

そもそも。例えば上のような携帯の使い方で言えば、そうした乱用というのは、果たしてこの社会に公共性がないが故の問題なのか?

この携帯を一つの騒音問題として捉えれば、この社会はもともと騒音一般による私的空間、個人空間の侵害に対する意識がめっぽう低い(公共的交通手段の放送案内、種々の爆音宣伝カーなど)。

もし仮に戦後民主主義が、日本社会に個人の権利や自由の価値意識を拡大させ十全に定着させたのならば、誰かが携帯の乱用をすれば、真っ先に、自由主義の危害防止原理により「個人としての私(ワタシ)が迷惑だから止めてくれ」と周囲から注意され、そんな身勝手な振る舞いは規制されるだろう。

私が「真っ先に」とわざわざ言葉を挟む意味が分かるか。
授業者や制度やルールや公共や国家などが上から規制する「前の段階で」、という意味だ。
「私」を制限するのは「公」以前に、確固とした「私」自身の原理でもあるのだ。

公共性の薄さももちろんそうだが、その前にむしろ問題は、公私の別を緩く曖昧にする伝統的「世間」のもたれかかった人間のあり方にあって、真剣に見つめるべきは近代的個人主義、自由主義の未成熟のほうではないのか?つーことだ。


3、個人主義と公共心を、どちらか一方を減らすことなしには、もう一方を増やせないという単純なゼロサム関係として捉えているのが見て取れる(もちろん私自身はそうした立場に立たない)。
しかし、
個と公は対立関係ではなく
個が公から独立して作られもしない
「個」は「公」という制約の中で育まれる
2005年11月24日 公と個と私
とも述べており、上ではゼロサム関係と捉えているのに、一方では対立概念ではないとはどういうことなのか。常人には理解不能だ。
よく分からんが要するに、「個」は「公」によって規定・制約・否定される、「個」や「私」が「公」に一方的に従属する滅私奉公的公共観なのでしょう。

個人主義や自由主義を否定したところにたつ「公」というものを、スターリニズムやファシズムやそうした全体主義を同時にハッキリ排除したものとして、どうやればイメージできるのか教えて頂きたいと率直に思う。


いよいよ次回は、そもそも公共とは?という話になるでしょう。


参照
公と個と私
小林よしのり先生とpixie酒田市民#0619の個と公
公共心と個
posted by 日本海式エビ固め at 21:38| 天津 ☁| Comment(0) | TrackBack(2) | 公共 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月02日

新しくない公共

いきなりですが、公共です。


公私二元論においては、当たり前ですがとりあえず「公」と「私」とは対になる概念です。
で大変迷惑なことに、数年前に小林よしのり氏が〈「公」と「個」〉というキーワードを振りまいて要らぬ混乱を招いてしまいました。

度々各所で申し上げてきましたが、言葉として「公」と対になるのは「私」、「個」や「個人」と対になるのは「集団」あたりでしょう。


何ゆえ、小林氏は「公」に「私」を対にせず、わざわざ〈「公」と「個」〉としたのか。

以下は飽くまで解釈ですが、戦後民主主義=個人主義であって、それは日本のあらゆる社会問題の元凶であり、それを指導・扇動しているのは一貫して左翼(サヨク)勢力である。そのサヨクの基本的精神であるところの個人主義、これを公共性に真っ向から対立する概念として吊るし上げ否定しまくることにより、社会からサヨク的な残滓を放逐したい。こういうことではないかと。

戦後1955年からはほぼ一貫して自民党の独裁状態だったわけですが、それでどうして左翼が叩かれるのかがよくわかりませんが、それはまあいいとして。


個人主義についてですが。象徴的には、現行憲法や教基法は、確かに「個人の尊厳」、個人主義の精神で貫かれていると言ってよいでしょう。ですが、それは左翼勢力が独自に立憲、立法したものではありませんし、むしろ当時このような考え方に最も強く反対したのは左翼勢力です

そりゃそーだ。個人主義つーのはブルジョア・イデオロギーですから

ソ連を始め、共産主義国家では教育だってもちろん集団主義教育ですから、ブルジョア的個人主義は当然徹底して否定されます。

こうした全体主義的社会においては、いわば「個」を否定し乗り越えたところに「公」があるわけ。そしてこの「公」は国家=政府が独占的に規定するわけだけど(「公」=「国家」)。


当ったり前のことなんですけど、「他人に危害を加えないかぎり、個人は何をしてもよい」(J.S.ミル)という自由主義・個人主義が、社会主義・共産主義と本質的にいかにかけ離れた考え方なのかを確認して今回は終わりです。


次回へ続く。


参照
公と個と私
小林よしのり先生とpixie酒田市民#0619の個と公
公共心と個
posted by 日本海式エビ固め at 00:40| 天津 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 公共 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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