2005年07月29日

〈我々〉に回収され尽くすC

長らく中途になってました。

同じようなこと考えている方がいらっしゃるようです。

サッカーを愛せ報道者が感動を要求するな


さて、私が「〜をありがとう」という受け取り方にこだわるのはどうやらこういうことらしい。

「ありがとう」には、相手方(表現する側)の一人ひとりの多様な動機付け(何のために)やここに至る経緯(決して見せない膨大な努力)などの、一人ひとり違うニュアンスや表現に対する価値観を、一挙に消去して、全てひっくるめて「〈我々〉のために」の一点に収斂するように解釈する強力な形式上の作用を感じるからだろう。

例えば、初めからオリンピックの日本代表になって活躍し人々に感動を与えたいという動機で始める選手もいるかもしれないし、名誉や金のため、家族のため、単に好きだから、最も多いであろう自分のためとか、個人の中で動機は雑多で、多分色々組み合わさったりしてるわけです。(インタビューでは、プロですから自己規制や演技するから本心は不透明)

それに対する言葉としての「ありがとう」には、前述のように、〈我々〉のための意図的・意識的行為という仕方で、言祝ぎながら、動機などの個々の多様性・不透明さを無きものにした上で、手前勝手に一挙に処理する力があるので、言葉の上で一点の曇りも無い〈我々〉としての一体感に資することができる。


要するに、大した刺激の無い暇な〈我々〉の日常の余興のために、自分たちで無理やり感動する機会をでっち上げて、自分たちの好みに合うように加工し消費する、自作自演の作法なんでしょう。

感動の押し売り、また感動の仕方の社会的統制はファシズムの端的な始まりだとういうこと、これ念を押しておきたい。
posted by 日本海式エビ固め at 12:56| 天津 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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